2.抱きしめる
| 「ひとまずこれで午前の部はお終い、ですね」 「ああ。あとどれくらいだ、少尉」 えーと、とハボックは抱えた書類ケースから白い紙を何枚か捲って取り出した。 「そう…あと四軒分ですね。どうしますか、明日にしますか」 「いや、今日やってしまおう」 「イエッサー。ま、その前に昼飯食ってしまいましょうか」 「そうだな、そろそろ食堂も空いてくる時間だろうしな」 そっすね、とハボックは軍服の袖をまくり上げて腕時計の文字盤に眼を凝らした。頂点を指した長針を、短針がいくらか引き離している。 十三時過ぎ。世間一般の昼食の時間にはほんの少し遅いくらいの時間だが、このくらいのほうがレストランも空いていて都合が良いと、ハボックも知っていた。丁度良い時間になることを見越して、上司は予定を組んでいたのだろう。空腹を感じ始めた胃袋を抱え、今なら何でも美味しく食べられそうだなとメニューをいくつか頭の中で並べ立てる。もしかしたら機嫌の良い上司が奢ってくれはしないだろうかと、給料日前の寂しい懐具合を考えて居たときだった。 傍らで歩調を揃える上司が、その歩みを止めた事に気づいて、数歩先に進んでいたハボックは「大佐?」と振り返った。 「どうかしましたか」 「いや、あれは」 見るとロイは大通りの向こう側、細い路地の方へと顔を向けている。何がその視線の先にあるのだろうと手をかざしてハボックも同じ方向を見た。 角の果物屋の軒先を掠めるようにして見えたのは、風にはためく赤いコートだった。 見覚えのあるその形と、揺れる三つ編みに思い当たる人物はただ一人。 「あれ、大将じゃないっスか。いつの間に中央に戻ったんでしょうかね」 「おおかた昨日今日こちらに着いたのだろう」 「こっちに着いてるなら司令部に顔出す筈ですもんね」 ハボックもロイも二人して彼が中央へと立ち寄っている事を知らないのは、恐らくはまだ兄弟が司令部に報告をしていないからだろう。きっとまだ此方に到着して間もないにちがいない。だが、大抵は列車がセントラルに着いたその足で、司令部に顔見せにくるという兄弟の慣例を知っていて、ハボックの脳裏にふと疑問が浮かぶ。 そんな事もあるだろう、何か急ぎの用事でもあったのか、それとも唯の気まぐれなのだろうか。深くは考える事をせず、だがいつも見慣れている筈の姿と、今視野の端を掠めている少年の姿が何処か違う気がして、ハボックは更に眼を凝らした。 「アルフォンスが居ないな」 「そっか、アルの姿が見あたらないっすね」 呟くように漏らしたロイの言葉に、ハボックは違和感の正体を知った。いつも連れだって二人で歩いている少年の、その片割れの鎧の姿が見あたらないのだ。 「珍しいっすね、大将が一人なんて」 「何か用事でもあったんだろう」 「ええ、まあ…」 言うなり踵を返してエドワードの方へと歩き出した上司を、慌ててハボックは追いかける。 「ちょ、大佐、昼飯は…」 「少しくらい待てるだろう」 「……イエッサー」 あわよくば大佐の懐具合にあやかろうとシタゴコロを抱いているだけに、強い物言いもできないハボックは、まだ此方に気づいている様子のない少年へと足を向けた上司の後ろ姿に続いた。 石畳の道に、ブーツの踵の音が高く響いた。 「やあ鋼の」 不意に掛けられた声に、びくりとその肩が大きく震える。驚いた表情で振り返った少年は、目を丸くして軍服の二人を見上げた。 「た、いさ…と少尉も」 「うっす」 片手を上げて気さくな挨拶を返し、ハボックは目の前の少年を見た。そしておや、と小さく首を傾げる。やっぱり普段の良く見知っているエドワードと様子が違う。 「驚かすなよな、二人とも」 「何をぼーっと歩いてたんだ、司令部にはもう顔を出したのかね」 「いや……これからだけど」 「此方に来ているのなら、なるべく早く顔をだし給えよ」 中尉が君たち兄弟の事を心配している、と言えば「わかったよ」とぶっきらぼうな言葉が返った。この少年が、彼自身の上司であるところのマスタング大佐に向かって、そういう乱暴な物言いをするのはいつもの事だ。(そしてイシュヴァールの英雄であるところのロイマスタングに向かって、そんな物言いをできる部下もこの少年だけだ)それは時に照れ隠しだったり、時に口うるさい大人に対してのいなしであったりと、様々な感情を孕んでいて、周囲も時にハラハラしながら暖かな目で見守っている。 でも今日の口調はいつもと違う響きが籠もっているような気がして、ハボックはまじまじと目を見開いて、横を向いたまんまのエドワードを眺めた。 確かに普段のエドワードは、ロイと話すときはいつもぶっきらぼうだ。水と油というか、似たもの同士と言うか、この二人は磁石の両極のように、いつもぶつかっては反発しあっているように見えるのは確かだ。(それも主に少年の方が一方的にそうしているように見えるというのも事実だったが) でも、今の少年の口調には、いつもの反発するような響きが無いように思えたのだ。覇気がないというか、単刀直入に言ってしまえば、元気がない。 「大将、どっか具合でも悪いのか」 「別に」 「ならいいけどな」 そして短く返された言葉にも、再び違和感を感じる。ロイだけでなく、ハボック自身に対してもこういった言い方をするのは珍しい。調子が悪いというよりも、虫の居所でも悪いのだろうかと考えたが、今はひとまず限界に近い胃袋を宥める方が先決だ。 「この後すぐに司令部に行くのか」 「あ、ああ…ちゃんと顔出すから心配するなって」 俺、別の用事があるから先にそっち済ましてくる、とひらひらと手を振ったエドワードは二人に背を向けて歩き出した。 その後ろ姿を見送り、ハボックはじゃあ、と上司に向かった。そろそろ空腹も最高潮に達してきている。そういえばこの前ブレダが美味いと言っていた店がこの傍だったなと思い出して、知らず笑顔が浮かんできた。 「じゃあ俺たちも昼飯喰いにいきますか」 「ハボック」 「はい?」 さて、とエドワードの去った方向とは逆を向いて歩き出そうとしたハボックの肩越しに、声が掛かる。なんですか、と振り返ると、腕を組んだ上司が難しげな顔をして突っ立っていた。 「メシは一人で喰っておけ」 その上司の口から出た言葉はハボックの意表を突くもので。言うなりロイは、少年の過ぎ去った方へと足を踏み出していた。 「え、大佐、ちょっと」 「金が無いなら司令部に戻って食堂に行くんだな」 「そんな、大佐ぁ」 午後からの仕事はどうするんですか、あと四軒も残ってるんですよ、と早足で少年の後を追いかけるロイの背中に、無駄だと分かっていても呼びかけずにはいられないハボックだった。 「続きは明日で構わんだろう、戻るのは遅くなると中尉に言っておいてくれたまえ」 「た、たいさ〜……」 そんなの自分で言って下さい、叱られるの俺なんですけど、と言ってはみても、既にロイは人混みに紛れかけた小さな赤いコートに追いついていた。あの様子だときっとこちらの言葉なんて届いていないのだ。 上司である筈のロイをも恐れさせる中尉でも、恐らくは史上最年少の国家錬金術師がらみの事を理由にすれば妙に寛容になる。溜息一つと愚痴のいくらかで自分は解放されるだろう。だが、上司はそうは行かない。 少年を口実に、またさぼったのではないかと勘ぐられても仕方がない状況だ。言い訳ばかりはどんどん上手くなってゆく大佐の所業についてまでは責任を取れませんからね、とハボックは聞こえないのを承知でぶつぶつと呟いた。 「せっかく美味いメシにありつけるかと思ってたのに…」 がっくりと肩を落として、嘆息をひとつ。仕方ない、今日の所は諦めるか、と潔くハボックは踵を返して司令部への道を一人歩いた。その足取りは重かったが、次にきっと美味いモノをご馳走して貰うぞ、と密かな決意を胸に抱いていたことは、薄情な上司のあずかり知らぬ事だった。 いきなりぐい、と掴まれた腕を引かれて、あやうくバランスを崩すところだった。 「な、んだよ一体」 「待て、と言っても君は待たないだろうからな、君は」 一体誰が、と眉をつり上げて振り返った先に居たのは、腹の立つくらいに涼しげな目元の大人だった。 店の軒先、商店街の終わり付近のこの場所は、それでもまだ人の流れは多いので、道の真ん中で立ち止まっている二人は充分に通行の妨げになっていた。 「分かってんじゃねーか」 ドスを効かせた低い声で言ってみても、目の前の大人は顔色どころか、指先ひとつ動かすでもなく。それがいつも以上に腹立たしくて不満で、掴まれた腕を大きく振ってロイの腕を払った。 「だから仕方なく行動に移したというわけだが」 「司令部なら後でちゃんと顔出すって言ってるだろ」 急いでるんだから邪魔すんな、と言い置いてさっさと踵を返した腕が再び掴まれる。 「いい加減に…」 「するのは君の方だ」 振り払おうと力を込めても、生身の肘を掴んだ指先はびくともしない。ぐいと食い込む指の力が存外に強くて、エドワードは僅かに顔をしかめた。 「何なんだよ一体、オレに何か用?」 「さてね」 返ってきたのはやはりというか何というか、暢気な口調に暢気な台詞。人を呼び止めておいてなんだよソレは、といきり立つ子供をもう片方の手で軽くいなして、ロイは掴んだ腕に力を込め少年を引き寄せた。 「なっ……!」 不意に縮まった距離に驚いて、エドワードは顔に朱を走らせる。 「……っにすんだよ大佐」 「いい加減にしろと言っている」 思わず身構えたエドワードに顔を近づけて、ロイは短く言い放つ。真っ直ぐに少年の瞳を覗き込むと、迷うようにその光が揺れた。 「アルフォンスはどうした」 「ア、アルは……っ」 たまらず視線を逃がし、口ごもったエドワードを掴んだまま、ロイは黙って待つ。この勝ち気な子供が自分から目をそらすのは、大抵何か自身に後ろ暗い事があるか、思い悩んでいる時だ。 アルフォンスの名前を出されて明らかに狼狽えた様子を見ると、どうやら弟との間に何事かあったらしいと推測出来る。幾ら仲が良いとはいえ常に行動を共にしている訳ではないと知っては居たけれど、どうせまたつまらない喧嘩でもしたのだろうとロイは胸中で考えをまとめた。 「………」 それきり黙ってしまった子供を前に、ロイはふむ、と口元に手を当てる。 あの穏和で利発なアルフォンスが、わざわざエドワードを怒らせるような事をするとは思えない。だからと言って、エドワードが故意に何かした、ということもあり得ないだろう。 恐らくは、エドワードが己を過信して後先考えない無茶をやらかしたとか(そしてそれは大抵弟の為だったりもするのだが)、兄の事を思いやった弟の口調がついいつもよりきついものになってしまったりだとか(自分のために兄が無茶をするのが、弟は余計に嫌なのだろう)まあ推して測るべきはその辺りだ。 夫婦げんかは犬も喰わないというが、この兄弟の喧嘩もそれとさほど変わるところはないように見える。 意地っ張りな兄は売り言葉に買い言葉で、弟を置いて一人飛び出してきたのだろう。原因はともかく流れは大きく外れては居ないだろうと勝手に決めた大人は、黙り込んだ少年の腕を引いて歩き出した。 「な、んだよ大佐、オレは今から用事があるって…」 半ば引きずられるようにしてロイに連れられた少年は、その歩幅の違いからか足下をもつれさせた。腹立ちから隣の青年を睨み付けるが 、受け止める風もなくさらりと流されて余計にむかっ腹が収まらない。 「用事などないのだろう」 「…な訳」 「いいから黙って着いてこい」 本気で嫌なら殴ってでも逃げるはずだろう、と高を括ったロイは、少年の態度が僅かに怯んだのを見て取って、自分の推測が外れていない事を確信した。躊躇いながらも結局は自分と歩いている、そのことが何よりの証拠だ。 ならば、余計な口出しは無用だ。 「ちょ…、大佐、そっちは司令部じゃねーだろ」 歩き出して暫く。黙ってついてこいと言われたもののその意図が読めず、エドワードは大人へと抗議の声を上げた。 「司令部になど行かないさ」 腕を掴まれたままなのは腹立たしかったが、食い込んだ指の力がゆるむ事もないので仕方なく並んで歩き始めたエドワードは、その行き先を不審に思って傍らの大人を見上げた。 てっきり司令部に連れて行かれるものと思っていたので、いつもの見慣れた道とは違う風景にぐるりと首を巡らせた。 「じゃあ何処だよ」 「いつこちらに着いたのだね」 「…今朝」 「宿はもう決まっているのだろう」 「あ、ああ」 しかしエドワードの疑問には答えず、逆に矢継ぎ早に問いかけられて、深く考える間もなく正直に答えてしまった。 前回中央に来たときに立ち寄った宿が空いていたので、今回も其処を拠点としてしばらくは過ごす予定だった。 軍司令部の中にも宿泊施設が有るにはあったのだが、どうにも落ち着かない雰囲気になじめず、エドワードは別にホテルを取る事にしていた。とはいえ別に宿にこだわりが有るわけではない。前に泊まったホテルだと、アルフォンスの事もいちいち説明しなくて良いし周囲の町の地図も簡単に頭に入っているから楽なのだ。 そういう消極的な理由でエドワードは定宿をそのホテルにしていた。 弟との詰まらない言い合いの後で『司令部に行ってくるから』と言い放ち、宿にアルフォンスを置いて飛び出してきたのは良いが、肝心の報告書を持って出るのを忘れたことに気がついたのは先刻。 司令部にむきかけた足を戻して、でも今アルフォンスが居る部屋に戻るのもなんだか癪だしと、考えながら歩いていたところを、仕事中らしい大佐とハボック少尉に見つかったのだ。 (アルのバカヤロウ…) 原因は、と問われれば、傍目にはあまりにも些細な事なのでとてもじゃないが口にはできない。それでも兄の立場とかプライドとか矜持とかいったものがエドワードの頭の中を殆ど占拠していて、どうにも時間を置いて頭を冷やすほか無いという結論に至った。 勿論、弟だけが全面的に悪いだなんて、思っては居ない。 でも。 一度飛び出した手前、そう簡単にホテルに戻ったりはできないと下らない決心を、エドワードはしていた。 だから今、いけ好かないとはいえロイがどこかへ自分を連れて行こうとしている状況は、歓迎するわけではないが、口にするほど嫌でもないというのが正直なところ。 だがこの大人の思惑にはまるのも嬉しくない少年は、あからさまに不機嫌そうな表情を緩めることなく、こそりと傍らのロイの様子を盗み見た。 「昼は食べたのか」 「…まだ」 「腹は減っては居ないか」 「別に」 実際中央の駅に着いたときに、遅い朝食を食べたからさほど空腹は感じていなかった。 そんな会話(というよりは尋問のような気もしないでもなかったが)を交わしながら大人の歩く速さに合わせて傍らに着いていくと、不本意ながら少しばかり息が上がってくる自分に気がついた。 「………大佐」 「なんだね」 「………」 だからといってもう少しゆっくり歩いてくれとも素直に言えない少年は、視線を下げて小さく息を吐いた。 「放せよ」 「ん?……ああ、済まない」 そろそろ解放しても逃げたりしないだろうという目途がついたのか、ロイは言われるままに少年の肘辺りを掴んでいた手を放した。 「ったく、馬鹿力だな、アンタ」 漸く自由になった左腕を取り戻して、エドワードはいてて、と機械鎧の手で掴まれていた部分をさすった。袖を捲れば、指の後がついているかも知れない。 「職業軍人を舐めて貰っては困る」 「頭の中まで筋肉でできてるんじゃねーのか」 「一度でもチェスで私を負かしてから言い給え」 「お、オレは、ああいう姑息な手段とか戦略とかが嫌いなの!」 「盤上ならそういう言い訳もできるだろうがな」 実戦では傷つくのは自分だけでなく部下や同僚、周囲の人間もなのだぞ、と珍しく忠告めいた言葉を口にする大人から、再びぷいと視線を逸らす。 「………まあ良い。それより着いたぞ鋼の」 「え」 歩く事十分足らず。最初に声を掛けられた商店街からはさほど離れては居ないだろうが、いつの間にか閑静な住宅街に足を踏み入れていた。にぎやかな看板の類はなりを潜め、落ち着いた色合いの家が道路の両側に、行儀良く並んでいる。 どこからか子供の声と犬の鳴き声がする。リゼンブールのように一軒一軒が離れておらず肩を揃えるように連なった軒先には、生活の暖かな臭いが感じられた。 目の前には鉄製の柵と建物へと続く砂利のアプローチ。黄檗色の壁に覆われた建物は、周囲と比べても一軒家というには少しばかり大きい気がして、エドワードは何だろうかと頭を捻る。 「どうした、入りたまえ」 門扉を押し開けた大人は既に敷地へと足を踏み入れていて、入り口で突っ立ったままのエドワードを振り返った。 「何だよ、此処」 「ああ…そう言えば君は初めてだったか」 此方を向いた大人は、少年に向けて唇の端を持ち上げてみせる。 「セントラルでの、私の家だ。とはいえ、借り物だがな」 イーストシティでロイの自宅を訪れた事はあったが、彼処は小さなアパートメントだった。今度はこの家が一軒全部、ロイの借り受けた自宅だと言う。 大仰な作りの玄関を抜けると、カーテンを引いている為に真っ暗な廊下と吹き抜けの空間が広がった。 「な、んか黴くさくね?」 「私が入るまでは一年くらい空き家だったらしいからな。これでもかなり手を入れたのだが」 正確には、司令部の面々が(無理矢理に)引っ越しを手伝わされ、その時に大掃除もあわせてやったのだ。 広い家だが実際に生活をする空間は限られている。二階部分は埃を払って風を通した程度で、まともに手入れをしたのは一階の、それもキッチンやリビングくらいのものだった。 本来は二階に寝室を持ってくるべきなのだろうが、面倒がったロイはリビングの隣の書架へとベッドを運び込み、寝室兼用としていた。 「そんなに気になるか?」 「いや、それほどじゃねーけど」 オレは特に鼻が良いから、と脱いだコートをロイに預け、エドワードはリビングへと足を踏み入れた。 「……しっかし相変わらずだな、アンタ」 「ん?まあでも此処は広いからな。多少ものを置いたところでそうは邪魔にならんよ」 「に、しても酷くねえか、これ」 リビングのテーブルの上を占めているのは、一般家庭にありがちな食器や花などではなく、無造作に積み上げられた本と書類の束だ。仕事で使うものから錬金術に関するものまで入り交じり、これじゃあ何が大切なもので何がそうでないかなんて分かりやしないだろうなと呆れた表情でエドワードは眺める。あまつさえ、中には崩れて椅子や床に落ちているものも幾つかあった。 エドワードは危うく踏みそうになった書類の束を一抱え持ち上げて、置き場所を探す。 「適当で構わんよ」 「適当っつったって、コレの何処に置けと」 およそ平らな部分なんて無く、机の木肌も紙に埋もれてしまっている。抗議の声を聴いているのか居ないのか、ロイはエドワードの赤いコートをクローゼットから取り出したハンガーに掛けると、手近の壁に掛けた。続いて自らも上着を脱ぐとそれを椅子の背に放って、再びエドワードの手を掴んだ。 「此方へ来なさい、鋼の」 「ちょっと待てって」 仕方なく持っていた書類はぎりぎりのバランスで積み上げた本の上に放置し、エドワードは引かれるままにドアをくぐった。ちょっとでも揺らすと全部崩れてしまうだろうが、でももしそうなっても自分の所為ではないのだと言い聞かせ、エドワードは自分を納得させる事にした。 ロイが招き入れたのは書架兼用の、彼の寝室だった。 「カーテンは閉めたままでいいな」 「え」 「靴は脱ぎたまえよ」 部屋の入り口にひいてあるマットの上でブーツを脱ぎ、ロイは目を丸くしているエドワードにも促した。訳が分からないまま言われるとおりに靴を脱いだエドワードは、素足で踏みしめる床板の冷たさに眉を顰めた。 「来い、抱いてやる」 「え、え…ちょ、大佐っ」 強い力で引き寄せられ。シャツ一枚の腕が少年の身体に絡みつく。 「何、」 抱きしめられたのだ、と感じたときには、既にベッドへと大人の身体ごと倒れ込んでいた。 ぎし、と軋みを上げて二人分の体重を受け入れたベッドは、シーツだけは換えてあるのだろう。石鹸と太陽の臭いがふわりとエドワードを包み込む。 「待てよ、ちょっと、たいさ」 「煩い」 目の前に、大人の白い首筋が覗いている。強く頭を抱えられている為に彼の肩に顔を押しあてられた恰好のエドワードは、薄いシャツ越しの体温に頬を紅潮させた。息を呑んで顔を上げようとしたが、ロイの腕がそれを許さない。身体を起こそうとする少年と阻む大人との小さな攻防が続いた後、軍配は大人にあがった。 ふう、と溜息を吐いてエドワードは肩の力を抜いた。 この状況は一体。 改めて考えて、どくん、と一つ大きく心臓が跳ねる。 「もしかして、大佐……誘ってんの?」 「馬鹿者」 頭上から降ってくる声は心底呆れたような声で。それでも抱える力を弱める事はしないため、エドワードは相手の顔を見る事ができないで居た。 「一緒に寝るだけだ」 「へ?」 「朝の列車ということは、夜行だったのだろう」 「うん…まあ」 「良くは眠れなかったのではないか」 「………」 いくら列車の旅に慣れているエドワードとはいえ、完全に横になる事の出来ない夜行列車で知らず、疲労を溜めていたのだろう。ホテルに着いてからゆっくりする暇もなく飛び出したらしい様子からすると、疲れは取れるどころか一層その未成熟な身体の内側に蓄積されているにちがいない。 年若い者は度々、己の体力の限界を見誤って、無茶をし通す事がある。苛立ちなどの精神の不調を、肉体的な疲れと関連づけて考える事が出来ず、ただ闇雲に当たり散らしたりすることもある。 疲れていたからこそ弟と詰まらない諍いを起こしたのかもしれないと考えたロイは、ゆっくり出来る場所を近くに思いついた。 自身の家。彼処なら邪魔も入らず、少年がさほど気を遣う事もなく休む事が出来る。 ゆっくり休んで美味しい食事でも取ればきっと、弟との仲直りなんて簡単だ。 だから。 「腹が減っているなら、先に食事にするが」 「いい」 「そうか」 「ん」 腕の中の少年の身体から力が抜けたのを感じて、ロイは漸く腕を解いた。 「では休みたまえ」 「ん」 抱きしめられていた腕から解放されて漸く大人の顔を見る事ができたエドワードは、紅潮した頬のまま苦い笑顔を浮かべた。 「ごめん、大佐」 「馬鹿者」 さっきとは違った、柔らかい響きの声が聞こえる。 ロイの指先が伸びて、エドワードの頬に掛かった髪をゆっくりと梳き上げた。くすぐったげに目を閉じてされるがままの少年は、今度は自らが手を伸ばして目の前の身体に腕を巻き付けた。 「子守歌でも、歌ってくれんの?」 「お望みなら」 「へへ」 ぺたり、と大人胸の辺りに頬を押しあてて目を閉じていると、青年の鼓動が、鼓膜ではなく皮膚を通して伝わってきた。 「やっぱいいや」 抱きしめて触れたその場所から聞こえてくる規則正しい心臓の音は、遠い日の母の歌声に被って。 綺麗な澄んだ声の母の子守歌とは似ても似つかない筈のその音に、不思議と身体の奥底から安堵に近い想いが湧き上がってくるのを感じる。 髪を梳く手が、酷く心地良い。 「鋼の…?」 すう、と小さく呼気の気配がして、僅かに頭をずらして少年の顔を覗いてみれば、柔らかな表情のまま眠りの縁に身体を沈めた少年の姿があった。 狭いベッドで二人では窮屈だろうとそっと上半身を起こそうとするが、胴にまきついた少年の腕が邪魔をして思うように動けない。無理に引きはがせば、彼を起こしてしまいそうで、諦めた大人は自らも身体の力を抜いて横たわった。 抱いてやると言ったのは自分なのに。 いつの間にか、少年に抱きしめられているなんて。 息だけで笑うと、ロイは少年と共に午睡を貪るべく静かに目を閉じた |
いくしまさんとのメールのやりとりから生まれた話です。
ぬるいエドロイですみません。こんな話ですが大好きないくしまさんに捧げさせて下さいね。
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