1.我慢の限界
「だーっ、もう、何とかなんねーのかよ、それ」
いかにも憤懣やるかたなし、といった表情で立ち上がったエドワードは、その勢いで椅子をひっくり返しそうになり、
慌てて両手で支える羽目となった。
「ずっと我慢してたけどもう辛抱なんねえ!仕事中だってのにその態度は一体なんなんだよ!」
「何がかね、鋼の」
エドワードの提出した書類に目を通しながら職務を遂行していた(つもり)のマスタング大佐は、突然のエドワードの
大声に顔を上げた。
さっきまで大人しく腰掛けていたと思っていたので、全く虚をつかれた格好だ。腑に落ちないといった表情で目の
前で震える拳を握りしめている少年を見返す。
「何がもクソもあるかよ。さっきからずっと鼻歌なんて歌いやがって!全く、俺がこの報告書作るのに一体何日寝ずに
頑張ったと思ってるんだ」
「・・・・・鼻歌?」
「そう、は・な・う・た!」
「炊事やら洗濯やらのときに、概して女性がよく口にするという?」
「ああ、鼻歌だから『口にする』っていうかどうかは知らねーけどなっ」
エドワードのその言葉に、大佐はますますきょとんとした表情のまま動きを止めた。
「私が、今、鼻歌を歌っていたと?」
「そう!大佐が、今、鼻歌を歌っていた!」
カツカツとブーツの靴音も高く、ロイの座っている執務机に近づいたエドワードは、自らの徹夜の成果に手をつき、
真っ正面から大佐の顔をのぞき込んだ。
その勢いに気圧されて、ロイは思わず状態を少し反らせる。
「は、なに?もしかして無意識?」
「・・・・私が鼻歌・・・」
何やら衝撃を受けている風の上司に、エドワードは肩で大きく息を吐き、やれやれと腰に手を当てた。
「ホントに気づいてなかったんだ」
あんたさっきから、何が一体楽しいのかわかんねーけど、ずーっと鼻歌歌いっぱなしだったんだぜ。
エドワードのその言葉が終わる頃、ようやく我を取り戻した大佐は、手にしたペンの後ろでぽりぽりと頭をかいた。
・・・・鼻歌、か。一体私は何がそんなに楽しかったのだろうか。
鼻歌を無意識のうちに歌ってしまうほど、何か良いことでもあっただろうか。
「なあ大佐、聞いてんのか?ヒトの血と汗と涙の結晶を、鼻歌交じりで処理なんかされてたまるかっての」
「血と涙、ってのは嘘だろう」
「そ、そんなのはどーでもいいだろ、どっちにしろ大変だったんだからな」
それはもちろんそうだろう。いくら国家錬金術師とはいえ、たかが15才の少年が、軍の形式美を尊ぶ報告書を3日
以内に仕上げろと厳命を受けたのだから。
書類作成に慣れている軍人でさえ、半日はかかるシロモノだ。殆ど経験のない少年が、1日遅れたとはいえ数日で
提出したことに、正直ロイは驚いていた。
「だが締め切りは昨日だった筈だが」
「う、」
痛いところを突かれたエドワードが一瞬にしてひるむ。
「ま、それはともかく鼻歌ってのはたしかにマズいな、謝るよ鋼の」
「な、なんだよ、分かればいいんだよ」
珍しくいつもと違って低姿勢な物言いに、却ってエドワードは不審気にあとずさる。
この傲慢で権力欲の塊みたいな大佐に謝られると、なんだかとても居心地が悪い。何か裏があるのか、と思わず
勘ぐってしまうのは、仕方ないと言えよう。
「でもこの私が鼻歌、か。相当嬉しいことがあったんだろうな」
「仕事中くらい、仕事に集中しろよ」
「ああ、でも集中できないくらい嬉しいことがあったとしたら」
「なんだよソレ」
「聞きたいか?」
「あ、ああ」
思わず身を乗り出したエドワードに、声を潜めてロイは告げる。
「鋼のに会えたこと」
「・・・・・・・・・・・は?」
「私は昨日一日君を待っていたんだけどな」
いつまで経っても君は現れないし、おまけにヒューズが用もないのに電話を掛けてきて貴重な仕事時間を延々と
無駄に費やされるし。
だから、鋼のに会えたのが嬉しかったんだよ。
とどめは、今までに女性を何人も虜にしてきたとびっきりの笑顔。
しかし、エドワードは明らかに不審な表情を浮かべて、まるであり得ないモノでも見ているかのようにじりじりとあと
ずさっていく。
「な、何、そうやって俺を懐柔しようって魂胆かよ!」
その手にはのんねーからな、とドアのあたりまで下がってしまったエドワードに、思わず苦笑が漏れる。
「はははは」
冗談に決まっているではないか。
「やっぱそーか、よかった、俺、大佐がおかしくなっちまったのかと思ったぜ」
「失礼な。そんなに私が君に会うことを楽しみにしちゃいかんのかね」
「そーじゃねえけどさ」
ほう、と安堵の息を吐いて、エドワードは再び椅子に腰掛ける。
「とにかくさっさと書類、見てしまってくれよ。アルが宿で待ってるんだから」
「まあ、書類はこんなもんだろう。ご苦労だったな、鋼の」
書類の最後に印を捺し、大佐はとんとん、と紙の束をまとめた。
腕を組んでその様子を見ていたエドワードだったが、ソファーの背もたれに掛けてあった上着を取ると、立ち上がった
ロイに近づく。
「これでやっと安眠できるぜ」
「ああ、アルフォンス君によろしくな」
「了解」
そしてぐい、と掴まれた軍服の襟元が引き寄せられる。
「はがね、の」
言葉は触れた唇に奪われて。
一瞬、留まる時間。
でもすぐに柔らかな感覚は消え、踵を返した少年の後ろ姿にみつあみが揺れる。
「じゃあな、大佐」
「あ、ああ」
表情を見せることなく風のように部屋から出て行った少年の足音だけが、こだまする。
けっこう本気だったのに。
そして彼も、もしかしたら。
しらず、鼻歌が零れるように、おさえきれない笑顔が浮かぶ。
もうしばらくだけ誰も部屋に入ってこないようにと、ロイは願った。