オートミール







『本当にごめんなさい、大佐』

目の前には青銅色に鈍く光る鋼鉄の鎧。
自分よりも余程長身の彼を見上げながら、ロイはやれやれと肩をすくめた。
決して背が低い方ではないのに、何故か見おろされる機会が多い気がするのは、思い過ごしでは無いはずだ。


***


数日前から続いている雨は、やむ気配を見せるどころか一層勢いを増してイーストシティに降り注いでいる。
そのために普段は活気に溢れた東の拠点のこの街も、数段沈んだ空気に支配されていた。
単に雨の所為だけでなく、連日の豪雨がもたらした人的影響の数々の為でもあった。

数百戸に及ぶ床上浸水に加えて、鈍色の空から落ちてくる水滴は激しく地面を叩き川の水量を増して、他の街へと繋がる橋を、いくつか使えないものにしてしまっている。
川で囲まれたこの町は、橋を使い物にならなくされて、殆ど孤立しかけていると言っても過言ではない。

この雨の中を出掛ける大柄な鎧に、ロイは『気を付けて行って来なさい』と声を掛けた。
厳めしい鎧から聞こえてくるのは、しかしまだ変声期を迎える前の少年の声だ。
最初はその幼いとも言える声に違和感を感じていたロイであったが、彼の本質に触れるうちにいつしか、大きな鎧は繊細で聡明な小さな少年の姿へと自動変換されるようになった。

尖った兜の額当ての下、開いた双眸には光はない。
けれどもロイにははっきりと、済まなそうに寄せられた眉頭、兄と同じく澄んだ金色の瞳が見えた気がした。

大きな体を精一杯小さくして、心底申し訳ないと思っている鎧の体は、しっかり者で気配り上手な少年の姿そのものだった。

『いや、気にすることはない』
『でも、大佐もせっかくの非番日なのにこんなことをお願いしてしまって』
『そばについているだけでいいのだろう?どうせこの雨じゃ出掛けるのもおっくうだし、資料整理とレポートのまとめをやろうと思っていたところだ』
『有り難うございます』

再び頭を下げようとするのを手で遮り、ロイは柔らかな眼差しを目の前の鎧姿の少年に向ける。

『気を付けて行って来ると良い。鋼のの事なら私がしっかり面倒を見ているから』

それにあの調子なら、手がかかることもない。私は自分のやりたいことをやっているさ。
ロイがそう請け負うと、鎧の奥の瞳が嬉しそうに微笑んだのが見えた。

『あんな兄ですがよろしくお願いします』
『ああ。幸いというか何というか、今日くらいはさすがにおとなしいだろうからな』
『ええ』

くすりと笑い混じりに返せば、ほんの少し少年の口調も軽くなった気がして。
アルフォンスはもう一度深々とロイに頭を下げて挨拶をした。

『それじゃあ、よろしくお願いします』

何度も振り返っては軽く会釈をしながら、鎧の体を持つ兄思いの少年は、降りしきる雨の中姿を消した。




***




東方司令部で大佐を務めるロイ・マスタング。自ら『軍の狗』を名のり、国家の平穏に多大なる貢献をすると同時に、『焔』の二つ名を持つ錬金術師でもある。

一ヶ月ぶりの休暇を取ることができたのは、実はこの長雨が原因だった。

イーストシティに降り続く雨は、次第に様々な公共機関、とりわけ交通機関に影響を与え始めていた。
川は増水し、数カ所では橋が水没する被害も出ている。

もとより雨の多い街なので、水害に対する様々な準備と対策が取られていた。
マスタング大佐が東方司令部へと配属になってから、腐りやすく脆い木でできた橋は、次々に石のものへと造り替えられ、増水が懸念されている川には堅牢な堤防が設置された。

その他にも行われた様々な策が功を奏してか、住民達は例年にないこの豪雨に対しても、大きく狼狽えることはなかった。

ただ、交通機関の遅れや断絶だけは如何ともしがたく、生命線である食物の運搬経路だけは軍がなんとか確保しているものの、それ以外の、一般人の移動手段としての交通手段には実際多大な影響が出ていた。

食料に対する不安が少ないためか、ちらほらでている一般市民の不満も、大きな騒ぎに繋がることはない。
これは事前の雨への対策もあるが、何より軍隊が率先して、被害の出た家々の補修や、人的被害や事故を出さない為の頻繁なパトロールを行っている為であろう。


このところ、ロイ・マスタング大佐は、中央から送られてくる膨大な資料の山を分析、整理することに追われていた。
しかしこの大雨の為に運搬経路が絶たれ、来るはずの資料が届かない状態では、その仕事も途切れがちとなる。
雨が止んだときにまとめてやってくる資料を思うと、少し気が重くなるロイだったが、当面は街の被害の把握と回復に力を注ぐことにした。

『何言ってるんですか、大佐。大佐はここ一ヶ月一度も休暇を取っていらっしゃらないじゃありませんか』とはホークアイ中尉の昨日の言葉だ。

『ここは一つ、非番日にはちゃんと休むっていう人間らしい生活をしてください』
『しかし』
『しかしもへったくれもありません。大佐がそうやって休暇をお取りにならないから、私たちも大手を振って休めないんです』

上司が休み返上で働いている以上、自分たち部下だけが休むわけにはいかない。
大佐が率先して休んで頂かなくては、というホークアイ中尉の言葉にまるめこまれて、まる一ヶ月ぶりの休暇を取ることにしたのが昨夜。
ハボックなんてデートだの何だのと堂々と休暇を取りまくっているじゃないか、とは心の中で呟いただけだった。
何も藪をつついて蛇を出すこともない。中尉の言葉に有り難く乗っかることにしたのだ。

確かに、軍の人間としての仕事は行っているものの、錬金術師としての研究が滞りがちになっていたのは事実だ。
ロイとて一介の錬金術師。
査定の日までに、ある程度の研究成果を挙げなくては、国家資格を剥奪されてしまうことに変わりはなかった。

この機会に、少しでも研究のレポートをまとめようとロイはいくつかの書類を手に、自宅へと戻った。
資料の整理にかまけて居るうちに、どうやら夜が明けたらしい。
相も変わらず雨は陰鬱に世界を映し出してはいるが、かろうじて薄ぼんやりとした雨雲越しの光が、朝の訪れを告げていた。

街に大きな異変がないことを祈りつつ、朝食の支度をしていたときだった。
不意に鳴った電話が、ロイの手を止めさせた。
僅かばかりの嫌な空気を感じながら、ロイは2コール目で受話器を取り上げた。

「マスタングだ」
『おはようございます大佐、アルフォンスです。その…朝早くから済みません』

耳に当てた受話器から聞こえてきたのは予想に反し、馴染みのある少年アルフォンスの声だった。一瞬のためらいと緊張したような口調が、ロイの感じるちくりとした耳元の空気を刺激する。

『おはよう、アルフォンス。どうかしたのかね』
『実は……』

司令部からでないと分かりほっとしたのも束の間、彼が電話を、ましてやロイの自宅に掛けてくることなど滅多と無い。
柔らかな響きの中、どこか落ち着かないものを聞き取って、ロイは何事かが彼の身に起きたのかと眉を寄せた。

「お願いしたいこと?」

エルリック兄弟と幾度か行動を共にする機会があったが、彼らから何かを頼まれたことは、実は数えるほどしかない。
それも彼らの利己的な願いではなく、周囲の人間を助けたり、力になったりするためのものが殆どだった。
アルフォンスが電話を掛けて自分に頼み事をするなんて、余程困ったことがあるに違いない。

「私に力になれる事なら遠慮無く言いなさい」
『非番日だと伺っているのに申し訳ありません。実は』


兄さんが風邪を引いたんです。


『数日前に病院で薬だけは貰ってきたんですけど、あとは安静にしている他ないって言われて…』
ここ一ヶ月ほどの間に、イーストシティ近辺で質の悪い風邪が流行っていることは、ロイも耳にしていた。
主に十歳になるかならないかの子供が罹りやすいと聞いている。

二、三日高熱が続くが、安静にさえしていれば一週間ほどですっかり回復するというその流行病は、感染力が強いため予防接種を市民に呼びかけていたところだ。

長雨の湿度のお陰で空気感染はだいぶ減ったと報告を受けていたロイだったが、まさか鋼の錬金術師が罹るとは。
時折はっとするような大人びた眼差しを見せる彼も、見かけ通りの子供だったというわけかと、アルフォンスの話にひとりごちるロイだった。

アルフォンスの話によると、兄弟がこの数日泊まっていた宿屋には、十歳にならない子供が三人もおり、申し訳ないが彼らに感染しないよう、宿を移って欲しいと主人に頼まれたのだという。
宿の主人の言うことも最もで、彼らとて宿を変わることにやぶさかではない。

しかしこの大雨が災いした。

交通網の麻痺からイーストシティに足止めを食っている旅人で、どの宿屋もいっぱいだった。そんな状況下で、流行病に罹ったエドワードと鎧の姿のアルフォンスは、少しの同情とともにことごとく宿泊を断られた。
 
さすがに高熱で苦しそうな兄を雨の中あちこち連れ回すにも限界があり、困り果てたアルフォンスは電話で東方司令部に連絡を入れたのだという。おおかたホークアイ中尉から、大佐は今日は非番で自宅にいる旨教えられたのだろう。

「そういうことなら、遠慮は要らない。すぐに鋼のを連れてうちにきなさい」

君も疲れただろう、というと『いえ、僕はこんな体ですから』と無理に作ったような明るい声が返ってくる。
肉体的な疲労はともかく、まだ十四才の君が病気の兄を連れて、精神的に参っていないか心配なのだが、という言葉はすんでの所で飲み込まれた。
気丈な少年に今必要なのは、同情の言葉ではなく、暖かな部屋と兄の安静だと、ロイは知っていた。

「場所は知っているだろう。なんなら迎えの車をやるが」
『いえ、実はもう近くまで来ているので。有り難うございます、大佐。助かりました』

本当に済みません、と重ねて詫びて、電話は切れた。

受話器を置いたロイは、小さく溜息をついた。もっと早くに連絡をくれればいいものを。
大人を信頼していない訳ではないと、思う。だが、寄りかかる事を知らないのだ、あの兄弟は。

誰かに頼る事、誰かの助けを求める事。それを必要以上に恐れている気配すら感じられる。
苦い思いが心の内側に広がるのを感じて、ロイは小さくため息を吐く。
しかし今はひとまず。
兄弟のために部屋を整えて彼らの到着を待つのが先決だ。

ロイは顔を上げて、来客用の清潔なシーツを出すべく、階段を上がった。



 ***



電話があってから、ものの十分ほどで兄弟はロイの自宅の扉を叩いた。

「大丈夫なのか、鋼の」

アルフォンスの腕に抱えられたエドワードは、確かに高熱に冒されているらしく、ロイの言葉にも反応しない。
というよりきっと、聞こえていないのだろう。
忙しなく苦しそうな息を吐いて頬は熱のために紅潮し、身体を強ばらせている。
眉を寄せてそんなエドワードの様子を一瞥すると、ロイはすかさず手に持った大判のタオルで、ぐったりとした身体を包んでやった。
避けきれなかった雨のため、髪に、額に、いくつもの雫が宿っている。
おおざっぱにだが濡れた場所を拭ってやると、アルフォンスは安心したように安堵の息を吐いた。

「済みません大佐、こんな事でご迷惑をおかけしてしまって」

ぐったりした兄の代わりに鎧の弟が非礼を詫びる。

「何を今更。たいして綺麗なところではないが、ゆっくりするといい」
いつまでもそんなところに突っ立っていないで、早く鋼のをベッドに運びなさい、とロイが兄弟を部屋の中に招き入れた。

「有り難うございます。よかったね、兄さん」
「さあ、散らかっているが」

アルフォンスは少しだけ頭をかがめて玄関の扉をくぐると、兄を抱えたままロイが案内する二階の部屋へと階段を上った。

ロイにが案内したのは、普段は使っていない客間だった。簡素なベッドがひとつ、だがそのシーツは先ほど電話を切ってからロイが新しいものに変えてある。
そうっとベッドに横たえられると、エドワードは小さく身動いで熱い息を吐いた。
しかし苦しげに寄せられていた眉が僅かに緩み、力の入っていた手足がぐたりと投げ出される。
その様子を見てアルフォンスは、ロイに聞こえるか聞こえないかくらいの小さな声で、「よかった」と再び呟いた。

清潔なベッドに抱えていた兄を寝かせたアルフォンスは、エドワードの体調を見るべく近づいたロイを振り返った。

「それでは僕は、薬を貰ってきます」
「君ももう少し休んでからにしたらどうだ」
兄の身体から濡れた服を脱がせて、丁寧に拭う。
ロイが用意した新しい寝間着を着せてベッドに寝かせるなり、もう一度外に出るというアルフォンスを、ロイは引き留めた。

「いくら手入れをしているとはいえ、この雨に長時間濡れていたのだろう。少しオイルを塗ってやろう」
「いえいえ、とんでもない」

錆に強い金属でできている体ではあったが、それでも土砂降りの雨の中にさらされて良いはずがない。
手入れを手伝おうというロイの申し出をアルフォンスは慌てて固辞した。

「毎食後、飲まなくちゃいけないお薬が今朝で切れちゃったんです。ここから病院までは距離がちょっとあるし、なるべく早く貰いに行った方がいいんから」
「そうか、では私が車で送ろう」
「いえ、できれば大佐は兄さんに着いていて頂けますか」

僕には病気も疲れも関係ありませんから、とアルフォンスは微笑んだ。

「それより、本当にごめんなさい。せっかくのお休みだっていうのに、こんな無理なお願いをしてしまって」
「この借りは倍にして返して貰うから気にするな」

君の兄さんにね、と唇の端を上げて答えれば、ようやくアルフォンスの肩から力が抜けたように感じられた。

「はい、必ず」
そして鎧の姿をした兄思いの少年は、一旦ロイの家を後にした。



 ***



エドワードは、なにやら甘い匂いに嗅覚を刺激され、目を覚ました。

「………どこだよここ」

ゆっくりと頭を動かすと、柔らかなベッドに横たわっている自分に気がつく。
いつの間に着替えたのだろう。
全身に濡れて貼り付くようだった服の不快な感覚が消えて、さらりとした心地の良い綿の肌触りが、安心感をエドワードに与えた。
安堵の息を吐いて身体を起こそうとしたエドワードは、ズキリ、と後頭部を走る鋭い痛みに顔をしかめた。

「ああ……まだガンガンしやがる」

それでも熱で倒れた日より、まだ頭痛はマシになっていた。最初は目を開いているのが困難なほどの頭痛に見舞われ、閉口したことを覚えている。

枕に頭を沈めたまま、ゆっくりと辺りを見回してみる。
額に載せられたのは冷やすための濡れタオル。エドワードの体温を吸収して熱を持っていた。

「それにしても殺風景なトコだなあ」

窓にかかったクリーム色のカーテンごしに、雨の降り続く音が聞こえてくる。
ベッドサイドの棚にはいくつかの本が置いてあるだけで、他には何もない部屋だった。

目をこらして本のタイトルだけでも読み取ろうとするのだが、まだ視界がぼんやりとしていて「気候と構造の…」という文字がなんとなく判別できる程度だった。

宿にしてはあまりに簡素すぎる部屋だが、柔らかいベッドと清潔なシーツは、風邪で節々が痛いエドワードを安堵させる力を持っていた。

そこまで周りを観察して、エドワードは大切な事に気がついた。
そうだ、アル。アルはどこにいる?

「アル……?」

思った以上に掠れて力のない声が、それでもどうにか出た。
しかし返事はなく、部屋の中には雨の音が虚ろに響いているだけだ。

「アル?」

襲い来る頭痛に顔を顰めながら、エドワードは上体を起こした。
アルはどこへ行った、なんで俺だけがここにいるんだ。
突然に言いしれぬ不安がエドワードを襲う。

「アル……!」
「気がついたかね、鋼の」
「大佐!」

扉の開く音がして、見慣れた姿が部屋に入ってきた。
思わず大きな声を出して、反動の頭痛に頭を抱えた。

「安心しろ、アルフォンスは今、君の薬を貰いに病院へ行っているだけだ」

さっき出掛けたところだから、まだ帰って来るには時間がかかるだろうがな、と部屋へ入ってきた大佐は手に持っていたトレイをエドワードの枕元に置いた。

傍らに置いてあった木の椅子を引き寄せて腰掛けるロイを目で追いながら、エドワードはまだ得心のいかぬ表情で訴える。「

「大佐がなんでここに」
「ここは私の家なんだがね」
「え?」
「覚えていないんだな。アルフォンスから電話があって、宿を追い出されたから君を休ませてやって欲しいと頼まれたんだが」
「あ」

エドワードにも、宿を後にしたところまでは記憶があった。
その後何軒かの宿を訪ねたところで、襲い来る悪寒と倦怠感に半分意識を失っていたのだろう。
マスタング大佐の家に来る辺りどころか、アルフォンスが電話をしていた事すら全く覚えていない。

「どれ」
ロイはそう言って掌をエドワードの額に当てた。
ひんやりしたその感覚に肩を震わせ、思わず目を瞑る。
「まだ熱はあるみたいだが」
うちに来たときよりは少しマシかな、と目の前の大人は首をかしげてみせた。

「あ、あのさ」
「なんだ」

ひんやりした手が思っていた以上に大きくて、エドワードは居心地の悪さから思わず身を引いた。

「大佐、仕事は」
「ああ、今日は非番だ」
それよりちゃんと暖かくしていなさいと、上体を起こしたエドワードの背に枕を入れて支えにしてやりながら、肩口まで掛け布団を引き上げて被せる。

「弟のためにも、早く風邪を治さなくてはな」
「ああ…大佐にも迷惑かけちまったな」
「めずらしいことを言う。ま、この借りはまた存分に返して貰うから構わんよ」
「わかったよ」

ぶっきらぼうに言い放つエドワードに、ロイは小さく笑みを零す。
こんな殊勝な鋼の錬金術師を見ることができる機会はそうはないだろう。病気の時は誰でも弱気になるものだが、この少年までもがそうだったとは。
珍しいモノでもみたかのようなロイの表情に、眉を顰めてエドワードがぷいと視線を逸らす。

「それより何か食べられそうかね」
「え?ああ」

先ほど枕元に置かれたトレイには、甘い匂いを放つ暖かな粥状のものが載っていた。

「何コレ」
「君の大好きなモノだが」
風邪で少し嗅覚をやられているらしい。
甘い匂い、というのはわかるのだが、乳白色のどろりとしたそれが一体何であるか、エドワードには見当がつかなかった。
「風邪の時にはコレに限る。私が小さな頃風邪を引くと、母がよく作ってくれたものだ」
君たちの母上も作ってくれたのではないか、と言われても、この白いどろどろした物体には見覚えはなかった。

「とりあえず食べられるのなら、食べた方が良い」
その方が体力の回復にも繋がる。熱いから気を付けてな、とロイはトレイをエドワードの膝の上に載せた。
「ん」

一さじ、皿の中の物体をすくってエドワードは口元に運んでみた。

「……この匂いは」
記憶にある鮮烈な香りが、鼻腔を刺激する。

「そう、オートミール」

ロイの言葉を聞く前に、慌ててエドワードは匙を放り投げていた。
カランとトレイに弾んで、僅かに粥が飛び散る。
飲み込めない口の中のモノを、しかし吐き出す事もできないで両手を口に当てている少年に、顰めた眉で大仰にため息を吐いて見せながら、ロイはやれやれと肩を竦めた。

「何をしている、せっかく私が作った食事を食べられないというのか」

オートミールを牛乳で煮て柔らかくし、砂糖で甘味を付け食べやすくしたもの。
ロイが用意したのは、エドワードが最も苦手とするミルクを使ったミルク粥だった。

「こ……こわい、牛乳こわい……!」
「馬鹿者。病気のときにはコレを食べてゆっくり休めば直ぐに治るんだ」
いいから我慢して食え、と匙を突きつけるロイに、エドワードは蒼い顔を一層青くして後ずさる。

「嫌だってば、絶対食わねえ!」
あんな白と黒のまだら模様の動物から分泌された液体なんて、人間の口にするモノじゃねえ、とあくまで抵抗を続けるエドワードに、ふとロイは腕を組んで考える。
「ふむ…こんなに旨いのに」
と言うなり突きつけていた匙を自分の口へ運んだ。

そして。

「………!」

がっしりとエドワードの後頭部を掴み、引き寄せたかと思うと、そのまま唇を重ねられた。
驚きになすすべもないエドワードの口に、自ら含んだオートミールを舌で送り込んで与える。

「!!!!!!!」

声にならない悲鳴をあげて口に流し込まれるものからなんとか逃れようとするエドワードだが、風邪で力の入らない体ではロイに敵うはずもない。

「んーんーんーっ!」
助けてアル、助けて母さん、助けて神様!

必死の願いもむなしく、口に流し込まれた物体はロイの舌の動きも借りて無事に嚥下された。

「やればできるじゃないか」
「はーッ、はーッ、はー………」
ともすると胃に入ったモノの匂いがまだ口に残っている気がして、エドワードは鼻に抜けないよう息を慎重に吐いた。

「た、大佐……」
「なんだね、鋼の」

悪びれもせずにニッコリと微笑むロイに、エドワードはがっくりと肩を落とす。

「なんなら、これ全部私が食べさせてやろうか」
「え、遠慮します!」
「なんだ、せっかくの人の親切を」

言葉とは裏腹に、妙に上機嫌な様子のロイに、エドワードは背筋の凍るものを感じる。
やばい、この大佐。
何と言っても滅多にみせないようなこの笑顔。
風邪のものよりももっと質の悪い悪寒が、背中を走る。

「では私は研究の続きをやるので、次見に来るときまでに、全て残さず食べること。いいな」
「は、はい……」

殊勝に項垂れたエドワードに満足げに頷いたロイは、ほかほかと湯気の立つ粥と水差しを置いて立ちあがった。
部屋を出て行くその後ろ姿に、思いっきり顔を顰めてやる。
こんなもの、二度と口にするものか!
ロイが階下へ降りたことを足音で確認してから、そっとエドワードは窓を開けた。

そっちがその気なら、こちらにも考えがあるんだからな!

「仕方ないよな、人間誰でも得手不得手はあるし」
と訳の分からない理屈を捏ねながら、器を外へ差し出し、ひっくり返した。
器の中身は、当然支えるものを無くして重力に引かれ落下する。
これでよし。
満足げにエドワードがほくそ笑んだ、その時。 

「ただいま、大佐」
窓の下の玄関には、薬の袋を大事に抱えたアルフォンスの姿があった。

「おかえり、アルフォンス」
「どうですか、兄の様子は」
「ああ、だいぶ良くなったみたいだ。さっきも起きあがって私の作ったオートミールを食べていたしな」
「え、兄さんがオートミールを?」
驚いて声をあげたアルフォンスの頭へ、不意にべしゃり、と音を立ててなま暖かいものが降ってきた。

それはどろどろとした白い物体で、雨の中まだかすかに湯気が立っている。

「兄さん!」
「鋼の!」

二人の怒声が頭上二階のエドワードの部屋へ向けられたことは言うまでもない。
 


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