*逃がさない
「――ちょっと待て、鋼の」
「何?」
ロイの制止に、肩口へと顔を埋めていた青年が顔を上げる。
物問いたげな表情が自分へと向けられて、ようやくロイは自分が口にしたセリフを自覚した。
「どうしたんだよ大佐?」
言葉ばかりか、肘でずり上がったロイと青年との間には、僅かながら空間が生まれている。
つい今し方、直に肌と肌を触れあわせていたから余計に、ひやりとした冷気がロイの肌を突き刺していくのが感じられた。
どうしたのだと問いかけられて、ロイは正直戸惑いを隠せないでいた。
なぜならば、ロイ自身どうして制止の言葉が口から出てしまったのかが分からないからだ。
「大佐?」
余程呆けた顔をしていたのか、再びエドワードが目顔で問いかける。
金色の髪と瞳を持つこの少年――いや、既に青年へと成長した――は、かつて鋼の腕と足を持っていた。
機械鎧の右手でロイを抱きしめたのだった。
だが、今ロイに触れる両腕は、生身の人間のものだ。
弟の身体を取り戻す為に、失ったものを取り戻す為に旅を続けていた少年は、フラスコの中の小人との闘いを経て、
その殆どを取り戻していた。
失ったはずの右腕も、その一つだ。
――暖かさに驚いたのか?
いや、そんなはずはない。
うっかりと機械鎧に触れて、その冷たさに瞬間驚くことがあっても、生身の腕に触れて反応するなんてことはあるだろうか。
ロイは半ば混乱しかけた頭で自問自答した。
「……おい、大佐」
先ほどよりも剣呑な響きを含んだ声がして、ロイは顔を上げた。
見ると不機嫌を顔に貼り付けた青年が、眉根を寄せている。
「なんだよこの手」
「あ、いや特に意味は無いのだが」
「だったら退けろって」
「だから少し待てと言っている」
「待たねえって」
よいしょ、というかけ声とともに、エドワードは自分とロイの間を阻む腕を脇へ退ける。
邪魔をするものが無くなり、ほっとしたのか改めて笑顔になった青年が、ロイの肩を抱きしめた。
「もう充分待った。そうだろ、大佐?」
「………」
たしかにロイにはこの青年を待たせたという自覚がある。
過去に一度だけ身体を重ねたのは、もう数年も前のことだ。
どうしてもと請われて、なし崩しに身を委ねたのだが、ロイそのとき自分の誤算を知った。
エドワードは当然初めての経験だっただろう。
ロイ自身も同性を相手に、ましてや受け身などというのは初めての事だった。
勝手が分からないままにも、少年は懸命に暴走しそうな欲を抑えようとしていた。
年が半分ほどの少年が、必死にロイを求めて、それでもロイを気遣うことを忘れない。
欲情と自制の入り交じった眼差しは、強くロイを射た。
ぞくりとしたのだ。
彼の視線に。
自制を強いられたのは、果たしてロイの方だった。
肉体的な快楽だけならば、溺れない自信がある。
それなりの経験も経ているのだから、余裕のある態度で少年を導いてやれると思っていた。
――あの眼が欲しい、
なのに一瞬でもそう思ってしまった自分に、恐怖すら覚えた。
彼の足かせにだけはなるまいと。
たとえ導き授けることは出来なくても、彼の邪魔はすまいと。
最後の矜持に、ロイはすがった。
「やっと、アンタにこうして触れる」
それ以来一度として肌を合わせることをしなかったロイに、少年は違う解釈をつけていたようだ。
「俺たちが全てを取り戻したら、って、約束だったもんな」
――その時にもし、まだ私を求めるというならば。考えてやらなくもない。
「ずっと、大佐のことが欲しかったよ。触って、キスして、抱きしめたかった」
でも、アンタが言うから、手を伸ばせなかった。
「いっときの衝動だなんて、思われたくなかったからさ」
そう言いながら、成長した青年はロイの首筋に唇を押しあてた。
耳の下を舐めて、濡らした跡を唇でたどる。
「鋼の、」
ぞわりと背筋を這う気配に総毛立ち、再びロイは制止の言葉を口にした。
気づいたのだ、違和感の正体に。
ロイを包む腕、抱きしめる胸。
そのどれもが、かつてロイが肌を合わせた「少年」のものとは違う。
生身の腕を取り戻したエドワードは、それまでの分を補うかのように、目覚ましい成長を遂げていた。
しばらく見ぬ間に、身長はほぼロイに近くなった。
掌も大きく、幼さはすっかりとなりをひそめた。
身体中のどこを探しても丸みは見あたらず、「青年」へと成長した骨格はロイにも勝るとも劣らないほどだ。
「待てと言っただろう」
柔らかな耳朶に歯を立てられて、ぞくりと震える。
知らず、逃れようと肘でずり上がった、その時。
「逃がさない」
少年の瞳が、薄暗闇の中で輝いた気がした。
肩を強く掴まれ、口づけが降ってくる。
「―――ッ」
貪るような、としか表現のしようのないキスだった。
エドワードはロイの唇をこじあけ、歯列を割り、舌を忍び込ませた。
息を吐く間もないほどに、唾液を絡ませ、啜り、蹂躙する。
息苦しさに腕をつっぱねようとしたロイの手首を掴まえてなお、エドワードは解放しようとしなかった。
濡れた音が、身体の裡側からロイを侵してゆくようだ。
浮遊感というのだろうか。
脳髄の中身をかき混ぜられるような、何とも言えない感覚に、ロイは必死で耐えた。
絡ませ合った舌先が、ほとんど痺れはじめたころ、ようやく青年は顔を上げてロイを見つめた。
乱れた前髪をかき上げ、ロイは荒い息のまま青年を睨みつける。
「――ったく、君は私を殺す気か」
「アンタこそ、俺をこれ以上焦らせてどうしようってんだよ」
ロイの顔の横に、そう言って青年は拳をうちつけた。
苦しげに吐き捨てたエドワードの眼は、かつてロイが見たものと同じ光を宿していた。
「アンタが欲しい。もう待てないんだ」
――ああ、
なんて心地よい眼差しだろうか。
ロイの震えを、青年は怯えと取ったのだろうか。
きつく掴んでいた手首を、慌てて放す。
「大佐………?」
先ほどの勢いは何処へ行ったのか、伺うような青年の口ぶりに、思わずロイは苦笑する。
顔を上げて、少年をみつめて。
――覚悟を決める、ときなのだろうな
真っ直ぐに、微笑んだ。
「おいで、鋼の―――」