ショートストーリーズ4
*追いかける
「やあ鋼の」
ここに居たのかね、という言葉はあまりにも空々しく響いて、
エドワードは振り返る気にもなれない。
「何を見ているんだい」
司令部の屋上は、時折気分転換のために訪れる場所で、それは
何も司令部の面々だけに独占させておくには少々勿体ないくら
いの穴場だ。
だからこうやって気持ちの良い夕暮れの空気を肺いっぱいに吸
い込んでみようとやってきた時に、予測しない(正確には、そ
の可能性を全く考えていなかったわけではないが、希望的観測
に基づいて、そうならなければいいなと密かに考えていた)人
間から声をかけられては、正直機嫌が良いとはとても言えない
エドワードだった。
だから、声の主の問いかけにはあえて答えず、眼下の景色へと
向けた視線も動かさなかった。
けれどもそんな少年の態度には慣れているのだろう。
軍服のコートを翻して近づいてきた青年は、エドワードの隣に
立ち並び、彼の視線の先を探すように同じ場所をのぞき込んだ。
醒めるような青から紫へ、そして太陽が染める朱色。
眺めているその瞬間にも刻一刻と変化を続ける空の色は、街を
同じ色の絵の具で染め上げ、まるで一枚の絵画のような趣を、
醸し出している。
しかし少年の瞳には、それらの美しい景色への感慨が浮かぶ訳
でもなく、青年にも読み取れない不可思議な色を浮かべていた。
「何が見えるんだ」
「別に」
再び投げかけられた問いにぶっきらぼうに応え、エドワードは
手すりへと預けた腕へと顔を埋めた。
「……どうしたんだ?」
「あ〜…もう、台無し」
「何が」
「明日、発つから」
「そうか」
まるで会話になっていない言葉のやり取り。
こちらを一向に見ようとしない少年に、しかしロイは苛立った
様子もなく、ただ静かにその横顔を眺める。
「気をつけて行っておいで」
「…そのつもりだけど」
まるでふて腐れたかのような返答に、ロイは眩しいものでも目
にした時と同じく目を細めた。
「邪魔したね。さてと、私は仕事に戻るか…」
頑なな横顔を眺めていたロイが、ふと微笑んできびすを返した
そのとき。
その手首を掴んだ金属の感覚。
ひやりとした温度に、ロイは軽く目を見張る。
ぐいと引き寄せられた唇に触れた、かすかに低い体温。
「じゃあな」
しかしそれは一瞬の事で、顔も見せずに少年は背を向けて歩き
出していた。
あっという間に屋上から姿を消した小さな背中。
その姿を見送って、青年は別れ際にぶっきらぼうにに投げられ
た言葉を反芻していた。
『早く逃げないと、追いついちまうぞ』
くすり、と小さな笑みがこぼれるのを抑えきれない。
―――追いかけているのは、此方なのにね
でももしかしたら彼と自分は同じ輪の上を追いかけ続けている
のかもしれない。
それはひどく楽しい想像で、ロイはひやりとした唇の感覚をな
ぞった。
―――でもきっと、追いつくのは…
*雨上がり
「結構降ったな。川も増水してるし」
「良いんじゃないか。恵みの雨、だな」
「リゼンブールだと、雨上がりは道がぬかるんでて
馬車が通りにくいんだよなあ。車輪が水溜まりに
はまっちまって、その都度かり出されるんだよ」
田舎町のリゼンブールでは、この東方市と違って、
舗装された道など無い。
ぬかるみに車輪を取られた馬車の、脱出への手助け
や修理で、錬金術に長けているとの評判の兄弟は、
重宝されていた。
「しかし雨がなくては困るだろう?」
牧草も育たないし、何より飲料水に困る事になる。
「そりゃそーなんだけど」
雨上がりのリゼンブールでは、潤った大地に揺れる
緑が、一層際だつ。雨が降っている間は肩を寄せ合
うようにしていた羊たちも、雲の晴れた空に、何と
はなしに生き生きしているように見える。
だから雨は嫌いじゃない。嫌いじゃないけど、やっ
ぱり晴れた空が好きだ。
雨上がりの、湿った空気の中をきらきらと音を立て
るように、拡散していく光が好きだ。
傍らの少年は、まっすぐ前をみつめたまま歩いてい
る。そのつむじを見下ろして、揺れる三つ編みに光
が踊るさまに目を細めた大人は、赤いコートの背中
を勢いよく叩いた。
「ってえ!何すんだよ!」
「なら、雨が止んで良かったじゃないか」
「だから、そう言ってるだろーが」
本当は、馬車の手助けにかり出されるのも嫌いじゃ
ない。誰かに必要とされているという実感を、得ら
れるから。
肩を並べた大人は、少年の手を取ることもなく、た
だ微笑んだままだ。
彼にはホークアイ中尉が必要だ。ブレダ少尉も、ハ
ボック少尉も、ファルマンやフュリーだってそうだ。
彼らはロイに必要とされている。その存在を求めら
れてロイの傍らに居る。
ならば自分はどうなのだろう。
部下でもなく、友人でもない自分は、彼にとって、
必要だと言えるのだろうか。
「ま、いっか」
「何がだ?」
「こっちの話」
まだ、必要とされていなくても構わない。俺は俺の
自分自身の意志で此所に立っている。
いつか傍らの大人に必要とされるような、そんな存
在になれるよう、今は走り続けるだけだ。
いつか本当に、彼と肩を並べられる日まで。