時に曖昧な境界
| 唯の気分転換だった。 いつも此処に来るわけではない。いや、この場所に来たのは、かつて一度だけ。 特に何があるわけでもなく、灰色のコンクリートで塗り固められた足下と、風雨に晒されて所々錆の浮きかけた鉄製の柵。 それでも意外とがっしりとした柵の太さは、微塵の揺るぎもなく、囲まれた内側とそれ以外の世界とを、きっぱりと断絶しているようにも見えた。 司令部の屋上は、通常であればきっちりと施錠されて容易に出入りが出来ないようにされていた。 だが、この場所で浴びる日暮れ頃の風が心地よいと、いつの間にか知れ渡った末、殆ど鍵をかけられる事は無くなった。 ハボックなどは毎日のように仕事の合間あいまを見計らって、屋上に自主的休憩、所謂「さぼり」をしにくるのだとホークアイ中尉から聞いたことがある。天井のない場所で吸う煙草がまた格別に美味いのだと本人も言っていたから、きっとその為に来ているのだろう。 見回したところ、吸い殻やゴミの類は見つからないので、後始末はきちんとしているらしい。 最も、散らかしようが酷ければ、規律に煩い司令部が、屋上の開放を黙認するはずもないので、当然といえば当然でもある。 ロイ自身は煙草を吸う習慣もないし、休憩をとりたければ執務室の隣の扉を開けさえすれば、有能な補佐官であるホークアイ中尉が、格別に香りの良いコーヒーを淹れてくれるだろう。 特に銘柄に拘る方ではないが、ロイはホークアイの手によるコーヒーを飲むのを、毎日の楽しみにしていると言っても過言ではなかった。 同じ豆を使ったところで、自分やブレダには同じ味が出せないというのは事実で、不可思議な思いにとらわれながら、でもきっと、そういうものなのだと自然と納得もしていた。 コーヒーを上手に淹れる事に向いている手を、彼女は持っているのだろう。自分が指揮官に向いているように……いや、向いているなどと思った事は一度もない。 ただ、有能な指揮官でありたいと常に願い、そうあろうと努力している事は、事実だった。 頭上を仰ぐ。 短針と長針が重なろうかというこの時間、いかに司令部といえども人の姿はまばらになる。当直や夜勤のため、決して少なくない人数が残っているはずなのだが、昼間と比べると随分と閑散とした空気は隠しようもない。 こんな時間に、屋上に出てくる酔狂な人間もそうは居ないということだろう。 自分以外の人間が見あたらない事に半ばほっとしながら、頬を嬲る乾いた風に混じるように、溜息をひとつ。 空には満月よりもいくらか欠け始めた月が、薄雲を透かして光を投げかけている。こうやって見上げてみると、思ったよりも月というのは眩しく、存在感のあるモノなのだなとぼんやりとロイは考えた。 月の輝きの為に、周囲の星はかすみ、不機嫌そうに瞬きを繰り返している。 見下ろす街並みは、所々に灯るあかりを残して、静かに、眠りにつく獣のような穏やかさを孕んでいた。 もう殆どが、その活動を一時的に留めて休んでいる。 それでも残る灯りは、きっと自分のように期限のある仕事に追われているのだろうか。それとも、今日一日の疲れを労いながら、酒でも酌み交わしているのだろうか。 空気が孕んでいるのは、心地よさとはかけはなれた温度。 緩やかな風の動きで、辛うじて救われてはいるものの、ともすると夕方の方が心地よいのではないかと思えるほどに深夜の気温はじんわりと熱を持ち、軍服の下のロイの肌を汗ばませる。 乾燥しているのがせめてもだが、長居する場所でもないとロイが踵を返そうとしたとき。 「なんだ、先客有りか」 耳慣れた声がロイの背後から聞こえた。 のんびりと欠伸混じりのそれは、だが言葉の調子ほどには素っ気ない訳でもなく、カツカツとブーツの踵をならしながら、少年はロイの傍らへと歩み寄った。 揺れる金髪に、月の光が反射して踊る。そのつむじを見下ろして、ロイは半ば呆れたように言った。 「まだ司令部に居たのかね」 「ああ、つい熱が入っちまって」 ふわあ、とふたたび暢気な欠伸をしながら、エドワードはロイを見上げる。 「アンタもサボリ?」 「失敬な。仕事の効率を上げるためには、適度な休憩は必要不可欠なのだぞ」 「はいはい」 それよりも、とロイは少年の傍ら、いつもならそこにあるはずの鎧の姿が見あたらない事に眉をひそめた。 「アルフォンスはどうした。まだ資料室か」 「いや、アルは先に宿に戻ってるってさ」 三日くらいまえに生まれたっていう子猫を見に行ったよ、とさして興味も無さそうにエドワードは両手を頭の後ろで組んだ。 「それなら良いが…アルフォンスのような年代の子供が、あまり出歩いて良い時間ではないからな」 「………」 大人の言葉に、エドワードは瞬間、僅かに目を瞠った。まじまじと見つめてくるその視線に気がついたのか、ロイはあからさまな疑問符を浮かべて少年を見返す。 すると、驚いたような表情だった少年の顔が、柔らかく緩んだかと思うと。 浮かぶ、満面の笑み。 金色の髪は、なるほど光を反射するのだな、と闇夜の中でも明るく見えるエドワードの表情を眺めながら、大人はその意味を深く考える事はしないで一人納得をする。 きっと彼の髪は、僅かな光でも増幅するような効果があるにちがいない。その、金色の瞳も。 覗き込めばその光源が、もしかしたら見つかるかも知れないなどと馬鹿げた事を考えて、ロイは僅かに身を屈めた。 「有り難うな、大佐」 ふと、触れる感覚。 唇を掠めるようにしたのは、少年の、やはりそれも唇。 数瞬おくれて、キスをされたのだと気がついたロイは、だがそれよりもエドワードの言葉が気になって問いただす。 「珍しいな…君が私に礼を言うなど」 「アルの事」 「……アルフォンスがどうかしたのか?」 別に何も私はした覚えなど無いのだが、と首を捻るロイの前で、エドワードはくすりと小さく笑う。 「ま、いいじゃねーか。深く考えるなって」 鎧姿の弟を、それでも年相応の少年として捕らえてくれる。 しかも、この大人は、それを無意識にやってのけるのだ。何の気負いもなく、彼らへの妙な気遣いなどもなく。 ただ、傍にいる大人として、あるがままの兄弟を受け入れてくれているという事。 「よかったな、オレ」 アンタのこと、好きで。 「何がだ」 「別に」 へへ、と笑うエドワードには、きっと何を尋ねても無駄な気がして。ロイはやれやれと小さく肩を竦めた。 きっと。 告げる事も尋ねる事も簡単なのだ。 言葉は形だ。目に見える。もしかすると触れて手で触る事ができるかもしれないと思うほどに、その輪郭は明瞭で、およそ間違いようのない事実のように存在する。 だがそれによって失われるものもまた存在するという事を、ロイはよく知っていた。 伝える為に生まれたのが言葉。残すために、受け渡すために。 伝えたいと願いながら、でもそれが実際に伝わる事を恐れて。まるで二律背反の自分の心内が可笑しくて、ロイは僅かに唇の端を持ち上げた。 エドワードは、もしかするとロイ以上によく知っているのだろう。そう言う事は、おおむね子供のほうが聡かったりするものだから。 生きるという事は、常に何かを取捨選択するということだから。眠る事、食事をする事。会話をする事、呼吸をする事。 そして、前へと進む事。 選ばれなかった未来を切り捨て、行われなかった事柄を忘れ、今の姿がある。 そうしなくては、きっと重たくて前へと進む事が出来ないのだ。手にも足にも、色んなものがまとわりつくから。全てを選ぶなんてことは不可能。この両手に抱えられるモノなんて、ほんの一握り。 欲張れば、それさえも取りこぼしてしまうから。 だから今の自分には必要がない。 「大佐?」 「いや」 さあて仕事に戻るか、と大きく息を吐いて。 「君はどうする」 そろそろ帰った方が良いのではないのか、あまり遅くなってはアルフォンスも心配するだろう。 「うん、資料室の鍵を返してくる。そろそろオレも宿に戻るよ。大佐はまだ仕事なんだろ」 「ああ。もう暫く掛かりそうだ」 中尉に叱られないように、張り切って片づけるよ、と冗談交じりに口にすれば「大変だな、オトナって」と同情混じりの眼差しを向けられて、思わず苦笑いが浮かぶ。 「また明日も司令部に顔を出すのだろう?」 「うん、今日の続きが残ってるから」 そろそろ帰ろうぜ、と階段へと足を向ける少年の、その髪の上でやはり踊る、光。 分散されて、幾つも反射する月の光。 弾ける水滴のイメージがその後ろ姿に重なり、思わずロイは目を眇めた。 「大佐も戻るんだろ」 途中で振り返った少年が、此方を見ている。 「ああ」 金色の眼差しで。 そうか。 唐突にロイは気がついた。 彼の瞳に宿っているのは。 それは、きっと。 「ほら」 差し伸べられた手。機械鎧の手は白い手袋に覆い隠されて。 いや、隠すのではなく、それは彼の思いやりなのだ。伝えない言葉と同じ、同等の。 それを知っているロイは、躊躇うことなくその手を取った。 「鋼の」 掴んだ手を引き寄せて。 問うように見上げてくる少年へと、キスをする。 ロイの手の中で、エドワードの機械鎧の手がびくりと揺れた。だがすぐに生身の腕が肩へと触れてくる。 強く引き寄せられて。 触れるだけだった唇は、少年の舌に開かされ、その侵入を許し。 濡れた音を響かせる口づけに、ロイは意識の全てを向けた。 言葉なんて無くとも、ほら、こんなにも簡単に。 伝わるものだってあるのだと。 その幸福感はロイの胸を浸し、奥の焦燥を残してじんわりと全身に広がってゆく。 月の下で。 ロイは今このときの熱を感じるために、ただ目を伏せた。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー エドロイアンソロジー「LOVE,RAG TAG!」(20060811 編集:マメちょび ミカド様)に 寄稿させていただいたエドロイ小説です。 いつも以上に素直なエドを書いた気がします。
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